劇団四季 ノートルダムの鐘 と 今。
7月末に、劇団四季「ノートルダムの鐘」京都公演を観劇してきた。
期間限定公演ということもあり、
東京も京都もなかなかチケット入手も難しいらしい。
運良く5月にチケットを入手し、やっとこの日がきた。
公演が始まってまだ間もないので、
あまりネタバレするようなことはここでは書かないけれど、
胸にぐっとくる お話だった。
Disneyのノートルダムの鐘と原作を基にして、ブロードウェイで公演
それが、日本で劇団四季で公開。
今まで、ライオンキング、美女と野獣、キャッツ、リトルマーメイド、
オペラ座の怪人など代表の公演は観てきたけれども、
演出が印象強くて、瞬きする暇もないぐらい、見入ってしまった。
舞台の上で、鐘つき男のカジモドを始め、みんなが変身して行くのが、すごい、、、。
さっきまでマント被っていたのに、急に街の人々に変身したり、石像になったり
カジモドが醜い姿になって行くのが、あまりにも衝撃的で、
はああああああ。。。。。と思わず、スタンディングオベーションしそうに
なったような気分。
原作やDisneyアニメをみたことがなく、
ハッピーエンドで終わるだろう。
と、思っていたら、
そうでもなかった。
現代にも通じることが多い話でもあり、かえってハッピーエンドで終わっていたとしても、「物語だから」と、現実と比べてしまっているだろう。
カジモドは醜い姿で街に出たらいじめられ、おじにもほぼ見捨てられているようなもの。
自分は醜いけれども、フランスの街並みを観られる喜び
石像たちとの会話で自身の生きる世界をたのしんでいたこと。
その反面、外に出たい願望。
そして街で出会うジプシーダンサーに始めて、人として受け入れられる喜び。
人を助ける勇気。好きだけれども自信がない。
好きだけれども、ダンサーを見ると過去にとらわれる葛藤。など
登場人物それぞれの気持ちが、一度は誰でも味わったものばかり。
一人一人の葛藤などが舞台の上で表され、人生について考えさせられるようなことがほとんどだった。
公演が終わってから、しばらく「す、すごかったなあ」と、感情が整理できず
言葉がそれだけしかでてこなかったけど、
少し時間が経ってから、溜まっていた感情が溢れ出た。
ちょうど一年前に神奈川県相模原市の障害者施設で殺傷事件があった。
そのニュースを目にしていたから、今回この公演が印象強く残ったんだろうと思う。
犯人が言っていた
「この世になんて障害者なんていらない」という言葉。
劇中でもかなりの差別的な言葉がたくさん出てきた。
昔は今ほど理解などなく、偏見な目でみては言葉にするのがほとんど。
今では、ありえない。ことがほとんどかもしれないけど、
人間って無意識に自分と比べ優劣をつけているように感じる。
悪気はないけれども、無意識になっていると思う。
※人と比べて、痩せているや太っている、スタイルいいよな〜みたいな。
特に障害者に対しては
自分とは違う対象としてみていることが浮き彫りになっている。
今となっては、障害者への理解が進んでいるけれども、
正直、車椅子の人、白棒をもった人、盲導犬、介助犬など街中でみると
「道を開けよう」という行動になるまでに
その前に「あ、障害者だ」となってしまうことがあると思う。
また、気になって何度も見てしまっていたりしてることもあるだろう。
私も何度もある。
でも、人間の優劣をつけてしまうような心、葛藤な心は生まれ持ったものであって
100パーセントなくすことはできないし、それとどう向き合うか。
この世に生まれて同じ人間なのに、健常者と障害者なぜ区別をつけてしまうのか。
見た目から自分の価値観で判断してしまっているような気がした。
この世に生まれてきてから、いろんな人に助けられ、支えながら生きている。
けれども、その助けられ方が自分基準だったりするから、
自分以上に困っている人をみると、助けたい気持ちがあるけど
かわいそうに。っていう気持ちでとまって、なにもできず
自分には無理だ。とおもったり、
なんでこんなにせなあかんの。って
ぶつけたくなる気持ちも湧きあがってくるのかなって思う。
みんな自分の価値観があるから、人それぞれの考えがあるから、社会が成り立っているから、価値観を否定するようなことはないけれど、
障害者という枠組みなどいつの間にかできていたグレーな枠組みなど関係なく
何事にも
じゃあ、相手のために私ができることって何か。相手は何を求めているだろう
という考えのもと、行動して行くことが大事なのかなって思う。
その結果、喜んでもらえたら、こっちも嬉しいきもちにもなるし
かえって、余計でありがた迷惑だったと思われても、人それぞれであるんだなって思えばいいと思う。
人それぞれ考えや価値観は違うから。
ゆいいいつカジモドに対して、できることって何かな。というような気持ちをもっていた。
生まれてから、
日常的に車椅子に乗っている人、白い杖をもっている人、点字を読む人、
介助犬など連れている人をみて「なんでなんかな」っておもたときに、
周りの大人から「障害者」というワードを教えられ、
「自分と違って〜ができないから」と、悲観的にすり替えられているような気がする。
そこで十分な教えがなかったり、そのまま理解ができずに、偏見が大きくなって行くんだろうと思う。
大人として、そこで「できないことがかわいそうなんてない、みんな一緒の人間」など、考えに気づいて行くように持ってくことが大事なのかなっておもったり。
自分と違ってできないことなんて、人間たくさんある。
じゃあ、ピアノやバイオリンができない人を見て、かわいそうか。
日本人で日本語が喋られないことがかわいそうか。
日本人で日本語が喋られなかったら、
辞書も翻訳機つかえるし、他に喋られる人に助けてもらったらいいし、
自分の気持ちを精一杯伝えられるようなことが何よりも大事。
バイオリンなどピアノができない人がいても
ほかにも自分にはできない何かがあることを見つけて共有するなど。
人間を含め動物は弱いもの小さいものに対して、ちょっかいをかけたがる性質をもっている。
それに対して、マイナスな方向に持って行くのではなく、
ポジティブに「優しさ」に置き換えて行くことで、視点も変わって行くとおもう。
障害者とか健常者とか無意識にレッテルを貼られているけど、
この世に生まれてから、そのような区別なんて関係ないよな、、、。って思う。
みんな、人間だから。
人それぞれ助け合うのにいろんな方法がある。
みんな違って当たり前、
かわいそうなんていう言葉が飛び交って悲観的になるよりも
お互い嬉しい気持ちになれるには、どうすればいいだろう。とアクションをおこしていくことなど、その先のポジティブな気持ちな変換へ。
幼い頃から、夏の終わりにある、24時間テレビで障害者の特集をやっているのをみていた。
一昨年ぐらいから「このような番組をしてなんの意味があるのか」という声が飛び交っている。
私もうっすら疑問をもっていた。
番組側からしたら
「障害をもっていても、みんなと同じようなことができる」
ということをアピールしたいのであろうが、
このようなテレビ以外でも、彼ら自身がいろんなメディアで彼ら目線で取り上げられたり、家族などがsnsなどで発信して、それが自分たちの1人の人間としての情報として入ってきている。
しかし情報のツールなど発達した今日。
番組で大きく取り上げられることによって「障害者」「健常者」という枠組みが余計にできてしまうような気がするし、いつまでこんなことしているんだろうと思う。
海外ドラマ「glee」の中にも、車椅子やダウン症、アスペルガーなどのバックグラウンドのある登場人物がいて、特別に「障害者だから」というような枠組みなどなく、
多少のハンデがあったとしても、仲間が自然に補っていることや、
可能性に満ち溢れていることばかり。
もはや、障害 というよりも 個性 のアピールのほうが非常に印象強い。
そのようなドラマが増えて欲しい限り。
そして、日常的に当たり前になって欲しい。
時代は日々変わっていく。
日々感じたことを大切に、生きて行く中で、どうしたらみんなが過ごしやすいようにすごせられるか、考えて行動して行くこと。
だいぶ話はそれたけれども、
カジモドが鐘を鳴らすたびに、
自分の考えや価値観などを含む自分自身の魂に響いた。
その結果、自分自身を見つめ返す機会にもなったような。
今でも思い出すたびに、自分の心にグッと響く。
それだけ、かんがえるきっかけになった、今年初めて感動した
ノートルダムの鐘 だった。
ぜひ、見ていただきたい。